二輪ロードレースの世界最高峰MotoGPの最高峰クラスで、ルーキーの小椋藍が開幕戦タイGPで見せたパフォーマンスは、大きな衝撃を与えるものだった。
小椋は予選でいきなり5番グリッドを獲得し、その日の午後に行なわれたスプリントレースでは、2度王者のフランチェスコ・バニャイヤ(ドゥカティ)を追い回して4位を確保。さらに決勝レースでも5位でフィニッシュを果たした。この5位という結果は、2013年のマルク・マルケス(当時ホンダ/デビュー戦3位)以来となる好結果。小椋にとっては最高のデビュー戦となったということだ。
小椋の快走は、昨年のトラックハウスによる小椋の起用発表と同じくらい大きな衝撃だった。彼は最終的に2024年のMoto2王者になったが、当時のMoto2ライダーの中では、セルジオ・ガルシアやトニー・アルボリーノが注目を集めており、その時点でのトラックハウスから小椋が昇格するというのは誰も予想していなかったのだ。
そうしたライバルを押しのけて抜擢された小椋は、デビュー戦の活躍で一気に大注目の存在になり、今ではニュースの見出しにその名前が踊っている。しかしここで注目したいのは、このライダーを獲得することを決めたトラックハウスが、彼に何を見出していたのか? ということだ。
小椋の起用に当たって重要な人物はトラックハウスのチーム代表であるダビデ・ブリビオと、小椋のエージェントであるジョルディ・ポンスのふたりだ。彼らがその内情の一端を明らかにした。
「私は彼のキャリア初期は密接に追いかけてはいなかったが、昨年のMoto2で彼がタフな状況からどう抜け出そうとしていたかについては、感銘を受けたよ」
ブリビオ代表は、小椋についてそう語った。

「そして同時に、彼のライディングスタイルはMotoGP(マシン)に合っているように見えると気がついた。それをマッテオ・バイオッコ(アプリリアテストライダー)と話をして、確信したんだ。そうした指標によって、我々は彼を追いかけていた。彼が日本人だという点も興味深かったが、事前テストは不可能だったため、多少のリスクは含んでいた」
なおトラックハウスのライダーは、チームが給与を負担しているため、選択権はアプリリアではなくチーム側にある。とはいえ、トラックハウス側もアプリリアと相談している。その次のステップは小椋をアプリリア陣営に引き入れることだった。
一方で小椋は2024年に、Moto2で大胆な動きを取った。これまでホンダの育成ライダーとしてステップアップしてきた彼が、チーム・アジアを離れ、MTヘルメットへ移籍する決断を下したのだ。
しかも、スペインのヘルメットメーカーが支援するこのチームに加わりながらも、小椋は日本のアライヘルメット使用継続を主張したため、簡単な契約ではなかった。
結果的にMTヘルメットと小椋は王座獲得という大成功を収め、MotoGPクラスへのステップアップも勝ち取ったが、彼のマネージメントを行なっているポンスほど、その内情について詳しい人物はいないだろう。ポンスはアジア・タレントカップ時代から小椋と共に仕事をしており、彼を良く理解する人物のひとりだ。
「ホンダで育った日本人ライダーが、HRCで『お世話になりました』と言うことの意味を、皆が理解しているかどうか分からない」
ポンスはそう語る。
「その上、これはあまり知られていないかもしれないが、アイの父親とチーム・アジアの青山博一監督は非常に親しい友人なんだ。彼がアオヤマの前に立ち、別れを告げることは簡単なことではなかったはずだ」
ブリビオ代表から連絡を受けたポンスからこの件を知った小椋は、ホンダとの関係を絶ってアプリリア陣営のトラックハウスに行くかどうかを、ほぼ即決しなくてはならなかった。
「アイは5分だけ待ってくれと言った。その後、彼は電話を折り返して、(トラックハウスに)入ると言ったんだ」
小椋というライダーについては、ブリビオ代表もポンスも「典型的な日本人ライダーではない」と同意する。そしてブリビオ代表は、小椋にダイヤモンドの原石を見い出したと語った。
「我々は研磨する必要のあるダイヤモンドの原石を見つけたんだ。彼はとても謙虚だが、同時に非常に鋭い。学習は素早いし、止まることがない。一度ひとつのことをマスターすると、次のことに取り組むんだ」
「(タイGPの)土曜日に、彼はペッコ(バニャイヤ)の後ろについて走ることで多くのことを学んだと話していた。そして日曜日に、彼はレースで学んだことを実践することで、5位でフィニッシュできたと言っていたよ」