日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
今季から川崎フロンターレのコーチに就任した大黒将志には、指導者になった今につながる2人の名将との出会いがある。プロ3年目、期限付き移籍で向かった北海道の地で、“ストライカー”大黒将志の運命が大きく動き始めた。
プロの世界はそう甘くはなかった。
ガンバ大阪のユースからトップチームに昇格した1999年シーズン。どのポジションでもプレーできるようにするのがG大阪アカデミーの教えであり、大黒将志のルーキーイヤーはFWのみならず、サイドバックや中盤でも起用された。飛躍が期待された2年目に初ゴールを奪ったとはいえ、リーグ戦の出場は1年目より少ない7試合にとどまった。
このままじゃいけない――。危機感を募らせた彼は3年目の2001年シーズン、北海道コンサドーレ札幌に期限付き移籍する。フランスW杯で日本代表を率いた岡田武史監督の下、J1に昇格した勢いのあるチーム。ここでならひと皮むけるんじゃないかと、淡い期待を抱く自分がいた。
何より自分自身に甘かった。危機感はどこか飛んでしまったかのように、練習で気分が乗らない時は手を抜いているように周囲には映った。
悪癖がどうしても抜けない。というよりは気づいていない。シュート練習でも岡田が見ている前で、ループシュートだけを繰り返したこともあった。
岡田から呼ばれると、にらみつけるような目でこう言われたという。
「そうやってチンタラやってて、あと半年チンタラやってガンバに帰ったらええと思ってんのやろ。そんなんじゃガンバに戻っても、絶対に上手くいかねえぞ」
心にグサリと刺さった。薄らいでいた危機感が一気にあふれ出た。
おぼつかない決意を実行に移すために犬を飼った。ラオウと名づけた。
「それまでは朝食を食べずに練習に行っていたくらい。ラオウに朝ご飯を作って、自分も一緒に食べて。夜もラオウに夜更かしさせないように夜11時には一緒に寝て。ラオウを養わないといけないので、サッカーを真剣にやらないといけないって、そこはもう変わったと思います」
規則正しい生活を送るようになり、パチンコ通いも深夜のゲームも自然に止めることができた。
岡田武史と西野朗に共通した選手を「見極める能力」
ピッチ内もピッチ外も「チンタラ」がなくなった。出場機会をなかなか得られなくても腐ることもなかった。救いの言葉をくれた岡田には感謝しかなかった。
「途中からは岡田さんも、コイツちゃんとやるようになってきたなと思ってくれたのではないですかね。僕がラッキーだったのは、ガンバのアカデミーで育ててもらって“止める、蹴る”のベースはあったので、真面目にやり出したら毎日の練習で成長できている実感みたいなものがありました」
花開くきっかけをつかんで1年間のレンタル期間を終え、G大阪に戻ってきた。ここで出会ったのが、アトランタオリンピックでブラジル代表に勝利する“マイアミの奇跡”を起こした西野朗監督である。
大黒はFWで勝負したいと指揮官に直訴し、受け入れられた。
「復帰したその年でダメだったら、絶対もうクビだろうなと思っていました。同期のフタ(二川孝広)がトップ下をやっていたから、フタやヤットさん(遠藤保仁)のパスを受けるほうがやりやすいと思ったんです。当時は2トップでやっていたし、交代枠もあるから出場できるチャンスも多いのではないかと考えました」
FW専念はプロで生き抜くために自ら考え抜いた結論だった。復帰初年度こそ6試合1得点にとどまったが、FW失格の烙印を押されることも、クビになることもなかった。翌2003年シーズンは一気に出場試合数を増やして2桁の10ゴールをマークする。大黒の直訴云々ではなく、何より西野自身がストライカーとしてのポテンシャルを買っていた。だからこそ、前線での起用にこだわったのだ。
「岡田さんと西野さんが共通しているのは、よく選手のことを見ているし、見極める能力が凄い。何ができて、何ができないか、じゃあどのようにしたらいいか。西野さんは僕がちょっとずつフォワードとして良くなっているのを、ちゃんと分かってくれていたとは思う」
西野ガンバは攻撃サッカーを標榜し、遠藤、二川というスペシャルなパサーが幾多のチャンスを捻出するスタイル。大黒はユース時代に叩き込まれた西村昭宏の教えを思い起こした。パスの出し手と呼吸を合わせながらスペースに出ていくことを――。
「ガンバでプレーしていた時は、簡単と言えば簡単でした。なぜならば僕がパサーに合わせるのではなくて、ヤットさんやフタが僕の動くタイミングに合わせてパスを出してくれるので、あまり考える必要がなかった」
要求しなくても勝手に最高のパスが出てくるため、シュートを決めることだけに集中できた。2004年シーズンは20ゴールを挙げ、得点ランキング2位という活躍を見せる。ベストイレブンにも輝き、Jリーグを代表するストライカーとなった。
ジーコジャパン初招集で不発なら「もう呼ばれない」
この活躍に日本代表を率いるジーコ監督が目を留める。FWには高原直泰、柳沢敦、久保竜彦、鈴木隆行、玉田圭司らが名を連ねていたが、得点力不足に直面していた。そんな折に大黒に白羽の矢が立つのも自然な流れでもあった。
危機感を持ったほうが上手くいく。そんな価値観を持つようになっていた大黒は、初招集ながら「もし活躍できなかったら、もう呼ばれない」と己を追い込んでいる。
2005年1月29日に行われたカザフスタン代表との親善試合で後半途中に出場してデビューを果たすと、後日行われた練習試合ではゴールを挙げ、自分なりにチームの特徴やパスのタイミングをつかんだ。本番はあくまで2月9日、埼玉スタジアムで行われるドイツW杯アジア最終予選の初戦となる北朝鮮代表戦。大黒はしっかりとイメージを働かせていた。
「もし同点の展開であればタカさん(高原)が出ていくだろうな、と。もし、それでも上手くいかなかったら、僕にチャンスが来るかなと思っていました。出番は最後に来ると、そう思いながら準備していました」
まさにその展開どおりになる。ホームで開催される最終予選の初戦は絶対に勝っておきたいところ。1-1の同点というシチュエーションで終盤、ジーコから声がかかった。
■大黒将志 / Masashi Oguro
1980年5月4日生まれ、大阪府出身。G大阪の下部組織で育ち1999年にトップ昇格を果たす。札幌への期限付き移籍を経て、2004年にG大阪でFWとしてブレイク。翌年にはチームのJ1制覇に貢献した。06年1月からグルノーブル(フランス)、同年8月からトリノ(イタリア)でプレー。08年夏のJリーグ復帰後も得点力の高さを維持し、京都在籍時の14年には26ゴールを奪いJ2得点王に輝いた。日本代表としても活躍し、05年2月のドイツW杯アジア最終予選・北朝鮮戦で決めた決勝点で一躍国民的ヒーローに。21年に現役引退。G大阪アカデミーのストライカーコーチ、FCティアモ枚方ヘッドコーチを経て今季から川崎のコーチに就任した。